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東京の街を音で描く、オーケストラ×エレクトロポップの傑作──ピチカート・ファイヴ「大都会交響楽」

2025.8.7

#ピチカート・ファイヴ#ライナーノーツ#レコメンド#大都会交響楽#曲紹介

皆さんこんにちは。音文学管理人の池ちゃんです。最近アクセスが増えてきて、皆さん疑問に思っている事があるかと思いますので、念のため説明させてください。弊サイトは一切収益化をしておりません。今後も今のところ収益化を視野に入れておりません。あくまで管理人である池ちゃんが自分の好きな楽曲を紹介したいという、WEBメディアというよりもブログに近いものをイメージしているためです。そういう事なので今後も「広告が邪魔だなぁ」だったり「案件で紹介しているんだろうなぁ」といった事は起こりませんので、安心して音文学を訪問して頂ければと思います。よろしくお願いいたします。

さて、今回紹介するのはピチカート・ファイヴさんの名曲である「大都会交響楽」です。この曲は本当に壮大で、聴いているだけで雄大な気分になれます。そんなオーケストラ×ポップスの融合を実験した楽曲について、深堀りしていきます。

ちなみに前回の記事はPiKiさんで「Tell Me Tell Me ☆」を紹介しております。宜しければ併せてご確認ください。記事はこちらから。

ピチカート・ファイヴ──大都会の鼓動を音にするという挑戦

ピチカート・ファイヴは数々の名曲を残しました。90年代から2000年代初頭まで活動していたユニットで、後々ヒット作を連発するようなメジャーなアーティストに対して大きな影響力をもたらしたのではないかと私は考えています。

そんなピチカート・ファイヴが残した数々の楽曲の中でも「大都会交響楽」はそのタイトルからしても異彩を放つ有名な楽曲になります。交響楽──すなわちシンフォニーという言葉が示す通り、この楽曲は軽めの単なるポップソングではないと思います。東京や大阪といった大都市そのものを壮大な音楽で表現をしてみようという試みに満ちていると思います。さらには、ピチカート・ファイヴらしい”都会の恋愛模様”やポップセンスに溢れ、90年代の東京という「大都会」を独自の感性で切り取ったその世界観は、20年以上経った今もなお色褪せることがありません。

今回のライナーノーツでは「大都会交響楽」がどのようなバックグラウンドを持ち、どのような音楽的や文化的な意味を持っているのかを掘り下げていこうと思います。

ピチカート・ファイヴというフィルターを通した”東京”

未来と過去が同居するレトロフューチャー

ピチカート・ファイヴというと、皆さんご存知かと思いますが「渋谷系」という言葉と主に語られることの多いグループです。しかし、ピチカート・ファイヴの音楽はアルバムなどを聴くと分かりますが、単なるジャンルに収まりきらない複雑な楽曲構成になっている事が多いです。

「大都会交響楽」もまた、クラシックや映画音楽等を彷彿とさせるフルオケのアレンジがされており、そこに電子音楽的なブレイクビーツを乗せるという挑戦的な趣向が凝らされています。この”異色のコラボ”が「懐かしさ」と「新しさ」を見出していると私は考えています。

小西康陽さん紡ぐサウンドは、大都会交響楽で見ると、まるで古い映画のワンシーンを90年代の東京に重ね合わせたような感覚を与えます。また、野宮真貴さんのクールで少し気怠そうなボーカルが都会という冷たい空気を温めているようにも捉えられます。こうした感覚は、他のどのアーティストにも中々真似する事はできない「ピチカート的東京」の描き方がきっちりとされています。

東京という舞台を音で旅する

「大都会交響楽」の魅力の一つは、ミュージックビデオに出てくる「大都会」をまるでリスナーがピチカート・ファイヴと共に散歩しているような感覚を与える点にあります。私は東京はそこまで詳しくないですが、山手線の車窓から見える景色のように、次々と異なる都市の表情が変わっていくような感覚があります。静寂さをもたらす夜の新宿、雑踏が交わる渋谷、落ち着いた青山、そしてビル群の合間に咲く一輪の花のような小さな物語がそこにはあります。

ピチカート・ファイヴは、単なる都市の記録を行っているだけではなく、都市に生きる人々の感情までも音に閉じ込めようとしていると考えられます。「都市の孤独」や「都市の快楽」、「都市のスピード感」──そういった感覚が、リズムやコード進行の中に織り込まれているのではないでしょうか。

音の構築美──ポップでありながらシンフォニックな構成

層のように積み上げられたアレンジの妙

「交響楽」と名乗るだけありまして、この楽曲は非常に多層的なフルオーケストラのアレンジが施されています。オーケストラセクションが気怠そうに歌うメロディを支えながら、リズムセクションはブレイクビーツに通じる刻み方をします。そしてパーカッシブな電子音やSE(サウンドエフェクト)が、都市の喧騒お連想させています。

驚くべき点としては、これだけ多くの要素が入っているのにも関わらず、全体としてあくまで「ポップソング」としての軽やかさを失っていません。むしろクラシカルなオーケストラとブレイクビーツというダンスミュージック的なアプローチ―が絶妙なバランスで配置されていることで、リスナーの耳を飽きさせることはなく、最後まで「都会」という壮大な物語を聴かせる構成になっていると思います。

リズムの都市性とコードの哀愁

都会的な雰囲気として成立している本楽曲ですが、リズムはあくまでスムーズでありながら、アーバンなスピード感を持っています。これは、舞台となっている東京という都市が持つ独特の「止まらない流れ」や「息をつく暇のない切迫感」を象徴しているとも言えるでしょう。特にブレイクビーツを使う事によって切迫感をより強めていると思います。

一方で、コード進行にはどこか哀愁が漂っています。まるで、煌びやかな街の光の裏に潜む孤独感や、都会ならではの不安定な幸福を象徴するように、ストリングスの響きが時折顔を出しています。特にAメロやBメロでそれがはっきりと表れています。

この明暗のバランスが「大都会交響楽」を単なるお洒落な楽曲だけではなく、聴くたびに何か新しい感情を発見できる作品へと高めています。

歌詞に見る都市生活の心情

「交響楽」というタイトルに込められた意味

「交響楽」という言葉は、通常クラシック音楽の分野で用いられますが、ここでは”都市のあらゆる音の融合”という意味合いで使われていると考えられます。都会の日常的な音──例えば駅のアナウンス、自動販売機の音、人々の足音、カフェのざわめき。それらが一つの”楽章”としてまとめられて、普段気にも留めない「私たちの日常」そのものが音楽として成立しているのだという、ピチカート・ファイヴのユーモアと哲学をどことなく感じる事ができます。

都市を愛しながらも、すれ違う気持ち

歌詞を読み解くと、華やかな都市の街並みの中に、どこか切ない視点が込められている事が分かります。例えば以下の歌詞についてです。

恋人たち
いつでも時間が足りなくて
逢いたいのに
いつでもすれちがうばかりで
引用元:Uta-Net(こちら

この「時間が足りない」や「すれちがうばかり」といったワードチョイスは都会生活特有の時間のなさ、もしくは都会生活の中に潜む孤独などを表現していると考えられます。ロマンティックでありながら届かない想いが丁寧に描かれています。

それはまるで、愛している恋人たちだからこそ見えてしまう都会の不完全さへの眼差しとも言えます。ピチカート・ファイヴは、都会を賛美するのではなく、都会と共に生きる「私たち」の揺れ動く気持ちを、繊細にすくいあげていると考えられています。

おわりに──「大都会交響楽」が今なお響く理由

「大都会交響楽」は、90年代という時代の空気感を色濃く反映しながらも、今聴いてもまったく古さを感じさせない楽曲です。それは、単に流行のサウンドを追いかけた作品ではなく、人間と都会の関係という現代でも通ずる普遍的なテーマを、豊かな音楽性と知的なポップセンスで表現しているからだと思います。

この楽曲を通じて、私たちは東京という街をただの空間としてではなく、「想いを感じる場所」として体験することができます。そしてそれは、音楽の最も根源的な力──すなわち「世界を感じる力」を私たちに思い出させてくれると思います。それがシンフォニー的なアプローチをした大都会交響楽が描きたかった”都会像”なんだと思います。

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